プログラムが全然書けていないので、
一般的な問題を…
私生活のマルクス
マルクスの思想はすごいと思っていますが、
マルクスの人そのものは結構最低だったそうです。
酒場で飲んだくれて、
他の客と口論の末に喧嘩するなどよくあったそうな。
教師は教師である前に、一人の人間である
体罰問題がわんさか出てきていますが、
「体罰があってはいけない」となんだか精神論が語られています。
しかし、彼(=教師)は「体罰があってはいけない」という一般的な理想を前にして
一人の個別の感情をもった人間なのです。
彼は彼なりの考えがあるだろうし、
彼は使いこなせる限りの言葉を以って、
生徒と接してくるかもしれません。
でも、彼にだって欲望はあるだろうし、
欲望を抑えられることもあります。
彼はそうした中で鬱積した欲望を、
低コストで発露できる方法を発見できるかもしれません。
それはタバコであったり、酒であったり、ギャンブルであったり、
字を書くことであったり、素数を数えることであったり、
異性と性交することであったり、暴力であったり。
その一つの例が自分が優位であるという立場から
立場的に下位の者へ暴力を発出してしまう
-- 所謂、体罰とかパワハラとかセクハラとか -- を
見出すかもしれません。
貨幣の魔力
僕の個人的な意見では、
年齢の差がなんであれ、
持っている資産がなんであれ、
一人対一人の個人というのは
対等な関係であると思っています。
そこに、住んでいる土地であるとか、
個人の特殊な技能であるとか、
食料を獲得する手段を持っているとか、
なんだかんだの生存の条件という差が発生します。
詳しいことはここでは省きますが、
教師(持っている知見を与える)と生徒(知見を求める)との間に
上下の関係が発生します。
もちろん、そこには
ある知見が使用価値でない人間(=教師)、
ある知見に使用価値を見出している人間(=生徒)、
という二人の人間の間に
そのものが価値である商品(=貨幣)の授受が発生している
という事実があります。
貨幣の授受が発生していない状態においては、
ある知見が使用価値でない人間(=教師)、
ある知見に使用価値を見出している人間(=生徒)、
前者のほうが圧倒的に優位にあります。
欲望の対象である「ある知見」というのが、
前者にだけしか存していないので。
そして、この関係を維持したまま、
ある知見の授受を成立させる第三者が発生します。
所謂、生徒の保護者です。
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