2013年2月16日土曜日

教師は教師である前に、一人の人間である

みけです。

プログラムが全然書けていないので、

一般的な問題を…

私生活のマルクス


マルクスの思想はすごいと思っていますが、

マルクスの人そのものは結構最低だったそうです。

酒場で飲んだくれて、

他の客と口論の末に喧嘩するなどよくあったそうな。


教師は教師である前に、一人の人間である


体罰問題がわんさか出てきていますが、

「体罰があってはいけない」となんだか精神論が語られています。

しかし、彼(=教師)は「体罰があってはいけない」という一般的な理想を前にして

一人の個別の感情をもった人間なのです。


彼は彼なりの考えがあるだろうし、

彼は使いこなせる限りの言葉を以って、

生徒と接してくるかもしれません。


でも、彼にだって欲望はあるだろうし、

欲望を抑えられることもあります。


彼はそうした中で鬱積した欲望を、

低コストで発露できる方法を発見できるかもしれません。


それはタバコであったり、酒であったり、ギャンブルであったり、

字を書くことであったり、素数を数えることであったり、

異性と性交することであったり、暴力であったり。


その一つの例が自分が優位であるという立場から

立場的に下位の者へ暴力を発出してしまう

-- 所謂、体罰とかパワハラとかセクハラとか -- を

見出すかもしれません。


貨幣の魔力


僕の個人的な意見では、

年齢の差がなんであれ、

持っている資産がなんであれ、

一人対一人の個人というのは

対等な関係であると思っています。


そこに、住んでいる土地であるとか、

個人の特殊な技能であるとか、

食料を獲得する手段を持っているとか、

なんだかんだの生存の条件という差が発生します。


詳しいことはここでは省きますが、

教師(持っている知見を与える)と生徒(知見を求める)との間に

上下の関係が発生します。


もちろん、そこには

ある知見が使用価値でない人間(=教師)、

ある知見に使用価値を見出している人間(=生徒)、

という二人の人間の間に

そのものが価値である商品(=貨幣)の授受が発生している

という事実があります。


貨幣の授受が発生していない状態においては、

ある知見が使用価値でない人間(=教師)、

ある知見に使用価値を見出している人間(=生徒)、

前者のほうが圧倒的に優位にあります。


欲望の対象である「ある知見」というのが、

前者にだけしか存していないので。


そして、この関係を維持したまま、

ある知見の授受を成立させる第三者が発生します。

所謂、生徒の保護者です。




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