ここから先はいわゆるベンヤミンの思想を中心に語っていきたいと思っていて、
それを英語で書き表すには若干英語の書く力が足りないので、
日本語だけでやります。
ご了承ください。
アウラ
『複製技術時代の芸術作品』に登場するメインのテーマである「アウラ」。
これは一般的にはオーラとか呼ばれて、「アノ人独特のオーラを発しているよね」の「オーラ」と同じようなものととりあえず解釈しておいてもらいたいと思います。
で、この本を読みなおそうとしたのですが、『複製技術時代の芸術作品』の晶文社版を探したら手元に無く、
岩波学芸文庫版の解説付きのやつを読もうと思ったら持っていなくて、
どうしようと考えた結果、とりあえず簡略に書いてある三島憲一の『ベンヤミン』(講談社学術文庫2010年)があったので、
そちらに準拠しながら考えていきたいと思います。
ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』にて述べようとしていたことを三島の解釈を元に簡単に書いていきます。
- それまで芸術作品として呼ばれているものは、宗教的な儀礼の道具であった
- 近づきがたいものとしての存在として輝いていた
- 触ってはならないものとしての尊厳を誇示していた
- 脱魔術化の傾向(プロテスタンティズムなど)の中で、そうした儀礼の道具からは礼拝上の価値が失われ、展示的な価値が生まれてきた。
- 額縁に飾られる絵画は教会のフレスコ画に比べて移動させることが可能である。
- 展覧会のための芸術作品が生じてくるようになる
- かつては教会を訪れてフレスコ画を鑑賞することにより、「今ここで目の前に」フレスコ画「がある」という一回限りの体験という尊厳があった。
- この一回性の尊厳を当面「アウラ」と呼ぶことにする。
- 展示的な側面の価値が優劣になると、「今ここで目の前に」「ある」という一回性「アウラ」が減少する。
- しかし、展示のための芸術作品はその作品が「1つだけである」という点で「アウラ」が完全に消えきっているわけではない。
- 一方で印刷術の発展、映画という複製技術によってもたらされる芸術作品では、作品はもはや「1つだけ」という事実が排除されている。
- 映画においては、時間が連続するという暗黙的な聴衆の了解のもと、映画に描かれている物語が進行するが、実際は撮影順番は物語の任意の位置から撮影すればよいだけであるし、役者は自分が演じている人物である必要もない(例えば演技が下手くそな笠智衆に対する小津安二郎のフォローを参考とせよ)。
- 「アウラ」の消失そのものをベンヤミンが「芸術の終焉」と捉えているのではなく、「政治の美学化」(政治を儀礼の場にする、信仰の対象とする)によって最終的に戦争を目的とするファシズムに対向する手段として捉えていた。
- 「アウラ」の消失によって狙うのは芸術の政治化である。
つまりベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は、
芸術作品というのはかつてはそれが置かれている土地へ移動しなければ享受することが出来なかった対象であったという時代から、
芸術作品は複製によって享受でき、いつでもそれを享受できるものへと変化しつつあるという弁証法的な流れの中に
位置づけようと試みた批評であったと考えてよいであろう。
さて、ここではベンヤミンの「アウラ」概念の概説を眺めたわけであるが、我々は一度、これをマルクスに基づいて再評価していくことになる。
続く。
追記
Amazonで検索したら『ベンヤミン・コレクション-1 近代の意味』が挙がっていて、実はそれを持っていたらしい…orz