2012年3月28日水曜日

推論に関する覚書き[『系統樹思考の世界』の読書メモ]

ここで推論という言葉を用いているが、

この推論とは、科学における推論の様式であって、

型推論とか、このブログを御覧になっている人が

手に熱くなるような推論ではないので、ご注意を。

推論の三様式


  • 演繹法
  • 帰納法
  • アブダクション


おそらく、最後のアブダクションを除いて最初の二つは

まともに高校を卒業しているはずなら聞いたことのある

推論様式であると思うし、詳しく説明する必要はないでしょう。


1.演繹法


前提となる主張から、ある主張を導き出す方法。


例えば、

  • 「波長Xの光が目で観測可能である」→「波長Xの光は可視光」
  • 「三角形Pが正三角形である」→「三角形Pは二等辺三角形である」
  • このテストが通る場合、このテストに含有されるこのテストは検証されたことと同等とみなして良い

という感じ。

この推論形式の最高峰はスピノザの『エチカ』における神の存在証明ですね。

この本は面白いから読んでおいたほうが良いです。

唯物論的に神の存在を証明しているので。

「神なんかいるわけ無いじゃん、馬鹿じゃないの、死ぬの?

ニーチェもそう言っているし」という輩はとにかくこの本を読め。


それと最近はやりの形式証明手法言語Alloyとかはこのパターンに

含まれるのかな(棒:Alloy知らない



2.帰納法


経験法とも言います。

蓄積された観察データ元に普遍的な法則を発見する方法。


例えば、

  • 数値0について当てはまる法則が、ある自然数kについて当てはまる時にk+1でも問題が無いので、この法則は正しい
  • ある放射性物質から発せられる単位時間あたりの放射線量がXXからYYに減少したから、この放射線の半減期はZZ年である
  • このテストが動いているのだから、このプログラムは問題なく動いている


これらは直感的に訴えかけるものがあり、この論証スタイルは非常に人気があります。

TDDや、プログラムのテストなどはこの方法が大前提となっています。


しかし、データから推論する過程そのものは

論理的にも心理的にも大きく訴えるものがあるものの、

データそのものが間違っているかどうかは、

訴えるものからは別に検討されなければなりません。


三中はこのように述べています。

「データと理論の間にはどのような関係があるのか」という問題です。これまで説明してきたように、「経験に照らす」ことが科学にとっては不可欠です。しかし、その主張は、私たちが得る「経験(データ)」が完全無欠であるということを意味してはいません。むしろ、仮説や理論がまちがう可能性がある一方、観察データもまた誤りや不確かさを含んでいるかもしれないという現実的な状況のもとで、…(中略)…データに照らして整合的な仮説は「真」であり、矛盾する仮説は「偽」であるという解釈は、データがつねに完全無欠であるという前提を置いています。しかし、その前提はしばしば破られます。だからこそ、仮説や理論の「真偽」を言うことはきわめて難しいのです。


三中信宏『系統樹思考の世界』(講談社現代新書、2006年、pp.59-60)


データを絶対視する立場からすれば、

仮説や学説はその下僕であり、

データを不安視する立場からすれば、

仮設や言説にはデータは何の役にも立たない。


言い換えると、

JUnitの結果を絶対視する立場から見れば、

仕様はその下僕であり、

JUnitの結果を不安視する立場から見れば、

仕様にはJUnitは何の役にも立たない。



まあ、でも、そんな両極端ではうまく行かないわけで、次のような立場が生じる。


3.アブダクション



おっと、だれかお客が来たようだ…

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