昨今の芸術作品と言われているものは、
複製技術による編集というテクニックがかなりの部分を占めていることを否定することはできない。
映画 = 役者の身体 + 編集
第一回でも例に上げたのですが、映画というのが最も典型的な例で、
例えば、ここのサイトにあるように
とくに、いつもながら織田裕二はじつにいい。毎回完璧に役作りをしてくるし、表情やセリフの言い回しだけでこちらを引き付けて離さない。
というのはたんなるヘボ役者であるか、映画作りについて全くわかっていない者のセリフと思わざるを得ない。
映画というのは人間の無意識的な身体を切り取る装置であり、
人間の意識的なものはこの上なく邪魔なものでしかない。
もし、映画に出演する役者が役作りをちゃんとやると宣言するなら、
その映画の監督を務める人その役者に対して、「君は舞台で役作りをするといい」と述べたほうがいい。
映画と演劇というのを混同しないほうが良い。
例えば、クリント・イーストウッドの映画『トゥルー・クライム』というのは時間の映画である。
クリント・イーストウッドの演じるスティーブ・エベレットが死刑執行の現場に間に合うかどうかという
緊迫感を盛り上げているのは、
クリント・イーストウッドの運転する車が失踪するシーンと、
イザイア・ワシントン演じるフランク・ルイス・ビーチャムの死刑執行場のシーンとの
短いショットの切り替えという効果によって生じるのだ。
このような緊迫感の盛り上げは演劇では再現できない。
このような表現こそ映画の表現であり、ヘボ役者が頑張って役作りしても役に立たない本当の映画の魅力なのである。
他にも笠智衆が演技が下手くそで、訛りが取れないのを、日本の親父に仕立て上げたのが、小津安二郎である。
小津安二郎が笠智衆にゆっくり喋ってくれればよいということを伝え、
笠智衆に演技をさせなかった小津の手法が、笠智衆を日本を代表する親父に仕立てたということも忘れてはならない。
また、役者の驚く顔を撮影するためにヒッチコックなども考えてみるといい。
ヘボ役者の驚く顔よりも、人間の本当に驚く顔のほうが明らかに驚きを表現できるだろう。
ここで述べてきたように映画とは、編集と役者の身体(特に無意識的な動作)というのが本質と見てよいだろう。
さて、アウラ
役者がほんとうに驚いたという一瞬はフィルムによって収められ、それらは複製されるのみである。
しかし、その当の役者が驚いたというほんの一瞬、そのものは一回限りにものである。
複製された驚きの顔には一回限りというものがない。
一方で、役者がほんとうに驚いた瞬間というのは一回限りのものである。
この一回限りの瞬間にあるなにものか、これをベンヤミンは「アウラ」と名付けている。
複製された驚きの顔は一回限りというものがない。したがって、「アウラ」は消失している。
一方、ほんとうに驚いた一瞬というものには一回限りという性質がある。これは「アウラ」に満ちている。
『複製技術時代の芸術作品』においては、「アウラ」の消失についての議論が行われている。
(なお、三島憲一によると、この議論は非常に中途半端で『写真小史』の方が徹底したものであるらしいが)
ではベンヤミンは「アウラ」の消失によって何を説こうとしていたのか?
続く。
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